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Schali's Tagebuch

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2009年 11月 10日

ベルリンの壁崩壊から20年にあたり、思うこと。

【しゃりまま記】

毎年11月9日には、「ベルリンの壁崩壊から○○年」とニュースになります。
そのたびに、ああ、もうそんなに経つんだなあと思っていましたが、
さすがに、20年、と聞くと感慨深いものがあります。

でも、11月9日の朝のニュースから、今日で20年、今日で20年、というけど、
実際には、壁の崩壊は、11月9日のドイツの夜中でしたから、日本では10日なんですね(笑。

そして、わたしたちが、壁崩壊のニュースをテレビで知ったのも、10日の朝でした。

ブログでもあまり紹介したことがありませんでしたが、しゃりままはベルリンの壁の崩壊時、
東ベルリンに住んでいました。あまりに貴重な体験です。今日は、その日のことをご紹介しましょう。





==========
朝、普通に学校に行く準備をしていたら、リビングにいた父が
「おーい、大変だ、来てごらん」と呼んでいるのが聞こえました。
なになに、とテレビの前に行ってみると、ベルリンの壁によじ上る人、
夜中に東西ベルリン国境に押し寄せて、そのまま西になだれ込む人たち、
それを迎える西の人たち、抱き合って泣き合う人たち、
そんな様子がニュースで次々放映されていました。

え、なに?!

最初は家族みんなで目を疑いました。
なにかのドキュメンタリーかと思いました。
それまでの東欧の動きは毎日ニュースで流れていたから、なにかの特集で、そんな映像が
流れているのかと。でも、アナウンサーの興奮した声、その内容から、今起きていることと
すぐに理解できました。

Die Berliner Mauer ist gefallen.
ベルリンの壁が、崩れました。

Mauerというのは、壁という普通名詞ですが、Die Mauerと冠詞をつけると、
または、ベルリンでMauerというと、それはベルリンの壁の代名詞でした。
それだけ大きな存在。強烈な存在。

なのに、あっけなく、崩れたって?

信じられない、けど、なんだか大興奮しながら、とりあえず、学校に行きました。
当時、東ベルリンの学校で、9年生。日本でいう中3でした。

学校に行くと、クラスメイトの1人が不在でした。
わたしは9年Bクラスでした。聞けば、Aクラスの生徒も1人不在だったそうです。
担任の先生が朝一番に教室にやってきて、「いない人はいますか?」。
みんなで「○○がいませーん」というと、普段は、「誰か理由聞いてる?風邪かな?」と
確認する担任の先生が、この日は何も言わず、ただ、笑っていました。

子供ながらみんな大興奮で、休み時間の話題はすべて壁のことでした。
見た?行ってみたいね。親と一緒に行くんだよ。そんな話でもちきりでした。

翌日、11月11日。
学校に行くと、前日不在だったクラスメイトが来ていました。
教室に入ると、彼は英雄でした。
その手には、1本のコカ・コーラのボトル。

・・・このときの感動は、物があふれる現代の日本の人には理解しにくいかもしれません。

当時の東ベルリンはあまり物が豊かではありませんでした。
コカ・コーラは売っていませんでした。
子供たちにとって、コカ・コーラは、「西」の象徴でした。

前日不在だったクラスメイトは、学校を休んで、両親と一緒に西ベルリンに行って来たのです。
本当に行けるのか、確認しに。
出かけてみたら、本当に行けてしまった。あんなに近くて遠い存在だった、西ベルリン。
うれしくて、わくわくして、どうしようもなくて、友達にも伝えたくて、
なにか、証拠を持ち帰りたくて、でも、なにを買って良いか分からないほど西にはたくさん物があふれてて。
そこで、選んだのが、コカ・コーラの缶1本だったんです。

「これ、自分で買ったんだ。」

クラスメイトが話すと、もうみんな堰を切ったように質問攻めです。
どんなだった?どこで買ったの?雑誌も売ってる?いつ行ったの?どうやって行ったの?
だれと行ったの?お菓子も売ってる?いくらだった? ・・・・・・

普段だったら、1時間目が始まるよ〜!!!と大声でクラスをまとめる先生も、
この日は少しだけ始まる時間を遅らせてくれました。



・・・しゃりままは、何年経っても、このときの感動が忘れられないです。



昨日の夜のテレビで、7人に1人はベルリンの壁を再建してほしいと言っていると紹介されているのを聞いて、
とても複雑な気持ちになりました。

壁崩壊直後のベルリンは、それはそれは浮かれた雰囲気でした。
20年前の11月、12月の東ベルリンでの挨拶は、
"Warst du schon drueben?"
(「もう、あっちに行った?」)
だったんです。
それだけ、みんな、わくわく、していました。

でも、そのあと、少しずつ、現実はわくわくばかりではないことになって来ました。

わたしたちの担任の先生は、ロシア語と体育の先生で、かなり年配でしたので、ロシア語だけを受け持っていました。
そんな中での壁崩壊で仕事がほとんどなくなりました。
でもほとんど定年に近い年だったので彼女はまだよかった。

英語の先生は、シュタージのメンバーだったそうです。
彼女のその後は分かりません。

同じクラスだった親友は、うまく時代の波に乗って、今ではフランスのパリで
子供2人とだんなさんと一緒に暮らしていますが、お母さんは美容師さんで、
美容師の技術や美容液剤の変化に悩まされました。お父さんは一時職を失いました。

他のクラスメイトは、職業訓練を受けられた人もいれば、音信不通になってしまった人も・・・

壁が崩れなかったら?
親友は、壁が開いたおかげで、今の幸せな生活をしているけど、
他の友達は、あのままの方がもしかして良い生活だったかも?
毎年、思います。
きっとそういう人たちが、壁を再建してほしいと思うまでになっているのだと想像できてしまいます。

でも、おとなになってから知り合った東独人たちは、大きな会社に入って大活躍している人たち。
壁が崩壊して今の方がいい、と言います。満足している人も、大勢います。

当時の東の人には、西はバラ色でした。
東ベルリンからは、西のテレビも見られましたから、東のスーパーで買えない商品のCMもたくさん眺めて、ほしいなあ、と憧れた。
今までは、買いたくても、商品が目の前になくて、買えなかった。
壁がなくなって、西に行けるようになって、目の前に憧れの商品が現れた。手に取れる。
でも、これからは、買いたくても、お金がなければ、目の前にある商品が買えない、ようになった。
どちらが辛いだろう???

ベルリンの壁崩壊の記念日の11月9日は、毎年、感動を思い出し、現実を憂う、
そんな日として、今後も過ごすことになりそうです。
でも、あのまっただなかに、いられたという体験は本当に貴重でした。
今のうちに、両親がそれぞれどんな思いでベルリンの壁崩壊を感じているか、聞いておかなくては・・・。

by schaliblog | 2009-11-10 10:31 | しゃりままのひとりごと


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